SOHO'S REPORT
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2001/07/12 日本人としてのアイデンティティ

最近、「私は日本人なのだ」ということを実感することが非常に多くなった。もちろんこちらに居れば、日本人として扱われるのは当前のことであるが、その理由を考えてみた。

ここでは、母国語という概念がない。それぞれの民族の言葉をもち、『共通語』としての英語があるのだ。そのため、ほとんどの人が英語を話すことができる。

日本であれば、英語が話せるというだけで、仕事はすぐにでも見つかりそうだが、しかし、それだけではこの国では仕事はないのである。以前、10カ国語話すというタクシーの運転手に出会ったが、彼曰く、「シンガポールではいろんな人々が住んでいるから、その人達とコミュニケーションをとるために言葉を覚えたのだ」という。私が「日本人は、シンガポーリアンみたいに英語を話せない」と言うと、「それは英語を使う必要性がないからだ」と彼は答えた。確かにそうである。

シンガポールでは、1965年の独立以降、英語の教育を推進してきた。しかし、その弊害も生まれている。例えば中国系のシンガポーリアンでみてみると、その民族性というものをしっかりと受け継いでいないというのだ。中国系といっても、北京語とよばれる標準語の他に、福建語、広東語など様々な言葉があるので1人で2〜3カ国語話すということが普通であるそうだ。しかし、話せても読み書きができないという人々が増えたため、現在は、華語保護運動の下、中国語も厳しく教育されているそうだ。以前よりも勉強することが増え、中にはストレスに感じている子どもいるらしい。

「シンガポールらしさ」というものを考えるとき、私はまだその答えを見出せていない。なぜなら、多民族国家であることと歴史が浅い故に、シンガポール独自の文化や伝統といえるものがまだ無いと思えるからだ。敢えていうとするなら、少し厳しい意見かもしれないが、「何でもあるが、何もない」ということだろうか。以前読んだ本の中で「シンガポールは実験場だ」と書かれていたのを思い出す。その当時は、その言葉の真意がよく分らなかった。しかし、今は多少は理解できているつもりだ。多民族という、文化や宗教が全く違う人々が共生していくためには、様々な困難があると思われる。シンガポールは、それを平和的に実践した国であると思う。今後「シンガポール」として、どういう歴史や文化を築いていくのか、大変興味をもっている。

日本は、千年以上の歴史をもち、独自の文化を育んできた。最初は大陸から影響を受けてきたものでも、日本独特のものとして変化させていった。一般庶民の文化が花を咲かせた時代も経てきた。また、古人に学ぶことも私達は知っている。少なくとも日本人としてのアイデンティティーというものはもち合わせていると思う。

現在、英語教育や国際理解教育と騒がれているが、同時に、しっかりと日本について学ぶことも重要だと思う。

ここには、在星長い(10年以上の)子どもたちも多くいる。その子ども達は、国籍は日本であり、両親とも日本人であったとしても、日本で暮らしたことは、ほとんどない子ども達だ。彼らは、
日本語を正しく学ぶために補修校に通い、日本文化等についても学んでいる。その子ども達が、日本人としてのアイデンティティーを身に付けることは容易なことではないかもしれない。
でも、きっと「日本人とは何か」と考えるとき、「シンガポーリアンとは何か」と考えるよりも、
はっきりとした特徴があると言えると思う。

21世紀はボーダレス時代だと言われている。また、共生の時代とも言われている。私達が世界の競争の中で共生しながら、唯一区別化できるものは、もう『民族性』しかないのではないだろうか。私達は、このことをよく理解した上で、「子どもの明るい未来のために」ついて考えていかねばならないと思う。






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